(富山県人2026年5月号)
東京中央郵便局と山田家住宅洋館 —吉田鉄郎没後70年
芝浦工業大学 名誉教授 南 一誠
逓信省の建築家として知られる吉田鉄郎は1894年5月18日に富山県礪波郡福野町(現南砺市)に生まれ、1956年9月8日に東京都杉並区荻窪でなくなった*1。今年で没後70年を迎える。吉田の旧姓は五島である。大学卒業直後に戸出町(現高岡市)出身の吉田芳枝と結婚し吉田家の養嗣子となった注1。
吉田の生誕地、福野町には吉田が設計した建物がいくつか現存している*2。吉田の処女作とされる西方寺授眼蔵図書館は、仏教図書などを収蔵するために1919年に完成。まだ学生だった吉田が設計に関与したとのことで、玄関前のエンタシスの柱や頂部が平らな窓などおおらかなデザインである。その仕事を通して棟梁佐々木嘉平(四代)との知己を得たことが、吉田が日本の伝統建築に精通し、日本建築の良さを受け継いだモダニズム建築を生みだすことにつながった。
父と、兄の五島寛平(五代、六代)が郵便局長を務めた福野郵便局とその住居部分は1923年に完成している。局舎の部分は現存しないが、住居は隣地に曳家されて残っている。1928年には近隣の城端郵便局も竣工した(現存せず)注2。
そして1929年に山田家住宅洋館が完成する*3。山田家は代々、福野で酒造業を営んでいた。酒造のための施設が並ぶ大きな敷地の中央部分に、山田家八代の山田正年が洋館を建設した。山田家や五島家などの素封家は福野の地域文化を担い、親しく交流していたので、吉田が設計を担当することになる。山田正年の嗣子正廣は結核を患っていたため、その療養生活を第一に考えた住まいが計画された。明るい日差しが差し込む室内、通風換気に配慮した開口部の配置、昇降しやすい緩やかな勾配の階段、出隅を丸くした室内各所の納まりなど吉田のきめ細かい配慮がみられる。2023年、洋館はその周囲に建つ蔵、倉庫、門および塀と共に住環境を一体として国登録有形文化財に指定された。現在は山田家11代当主、山田正彦氏が管理され、非定期ではあるが公開されている。

福野町 山田家住宅洋館(東面)と説明する山田正彦氏。右手に写る1階部分は安川慶一による後年の増築
山田家住宅洋館が竣工したのは1929年、吉田の代表作である東京中央郵便局が完成する2年前である*4。欧州では1925年にドイツ、デッサウにバウハウスが建設されるなど、様式建築から離脱し、合理的なモダニズム建築が模索された時代である。モダニズム建築は、第一次世界大戦(1914―18)、ロシア革命(1917)、ドイツ革命(1918―19)、スペイン風邪(1918―20)、世界恐慌(1930)など、大きな社会的危機が発生した変革の時代に生まれ、育ったものである。わが国では関東大震災(1923)も発生し、その復旧、復興事業のため困窮を極めた時代である。激動する社会を背景に、当時の建築家は進むべき道を模索した。吉田もその一人である。
山田家住宅洋館の設計は1927年に完了、東京中央郵便局は設計変更を繰り返したが1928年に設計を完了したとされ、ほぼ同じ時期に設計された注3。2つの建物は、規模も用途も大きく異なるが、吉田が世界の建築界の潮流も視野に、自分自身の建築の目標を定めて歩みだした1920年代後半に設計された作品として、重要な位置を占めている。
東京中央郵便局は、東京駅丸の内駅舎に面し日本を代表するビジネス街の入り口に建つ大きな建物である。純白の壁面と黒色の窓枠、日本の伝統建築を感じさせる柱と梁の架構が構成する清楚なデザインである。一方、福野郵便局、城端郵便局、山田家住宅洋館は、いずれも外観は黒い下見板張りの大壁であり、枠周りと桟が白く塗られた開口部やバルコニーなどが印象的である。吉田は東京中央郵便局と福野町の山田邸洋館を設計するにあたって、両者を対比して、あたかも白と黒の「対」の建物のように設計を進めていたのではなかと想像する。

東京中央郵便局 民営化による再開発前の姿(駅前広場北面からJR線路敷に面する東面まで奥行2スパンが保存された)
吉田が幼少期を過ごした砺波平野には、屋敷林に囲まれたアズマダチの農家が点在する。用水が扇状地の自然の地形に従って流れ農地を潤し、農家の屋敷も用水を利用しやすく配置されている*5。吉田は数多くの公共建築や住宅を設計したが、いずれも周辺の環境と建築とのかかわりを重視したことが評価されている。幼少期に砺波の散居村の美しい景観を見て育った吉田が、建物と環境との調和を大切に考える建築家に成長したのは、自然なことだろう。
吉田は福野から中越鉄道(現JR城端線)に乗り、県立高岡中学校(現高岡高校)に通った。高岡には加賀藩第二代藩主前田利長公の菩提寺瑞龍寺があり、吉田も訪れたに違いない。仏殿を中心に回廊が囲む禅宗寺院の伽藍は、どの建物も細部に至るまで緻密に美しく造られており、各建物が群として絶妙に調和した全体配置を構成している。バッハの音楽を愛した吉田は晩年、「ちょっとでも動かしたら全体がくずれてしまうといったような究極的な調和を保ちながら、がっちりと組合わされ、しかも淡々と流れていく構造的な美しさ。あっといわせるようなものではなく、きくものの心にしずかに、またふかくしみこんでくる類のもの。建築もやはりこうこなくては…と、つくづくおもう」と述べているが*6、その原点は高岡の瑞龍寺にあるのかもしれない。
吉田は1931年から約1年かけて欧米に出張し、逓信省の業務の傍ら建築を視察し多くの建築家達と懇談している。帰国直後には日本に亡命してきたブルーノ・タウトを日本各地に案内し、タウトの著書を通して桂離宮など日本建築について欧米の理解が進むことに寄与した。住宅が日本建築の基礎を作っていると考えていた吉田は、1935年には自らドイツ語で『日本の住宅』を執筆し、ドイツのワスムート社から出版、当時の欧米人が日本の住文化を深く理解できる唯一の書籍となった。晩年にもドイツ語で『日本の建築』(1952)、『日本の庭園』(1957)を執筆し、建築家の目で日本建築を海外に向けて発信した注4。
吉田は生涯にわたって、日本の伝統を現代の生活に生かし、自然環境を重視した建築を数多く設計した。吉田の没後にまとめられた彼の作品集の巻頭言「追想 序にかえて」で恩師の内田祥三東大名誉教授は「吉田鉄郎君は建築物の設計をする場合に、それの環境との調和に重きを置いた。」と評している*7。
吉田鉄郎の没後70年を迎えて、彼が目指した建築の理想を改めて考えたいが、その基盤は吉田が幼少期を過ごした南砺福野町の豊かな自然環境と人々が織りなしてきた地域文化がつくったものである。山田家住宅洋館は、100年近く前に建てられたものだが、今も当時の姿を大きく変化させることなく維持されている。日本の地域文化を代表する貴重な資産としても、次の世代に良い形でつないでいきたい。
著者:南 一誠(みなみ かずのぶ)
1956年生まれ。1981年から2005年まで郵政省建築部に勤務。芝浦工業大学建築学科教授を経て現在、同名誉教授。
注
⑴本稿を執筆するに際して、参考文献に記載する故向井覺氏、山田正彦氏、村田一也氏の研究成果などを参考にさせていただいた。
⑵現存しないが、1935年に完成した福野農学校農業博物館・報徳会館は吉田の設計とされる。西方寺にある五島家の墓所も吉田の作である。
⑶富山で海運業を営んだ馬場家の東京宅、旧馬場家牛込邸(1928年完成。後に最高裁判所長官公邸、国指定重要文化財)もほぼ同時期に設計された。
⑷『日本の建築』に対して、日本建築学会賞1952年度(業績)が授与されている。
*引用参考文献
1.『建築家吉田鉄郎とその周辺』向井覺、相模書房、1981年5月
2.「吉田鉄郎と山田家住宅“洋館”の100年―価値・認知度向上・維持活用」山田正彦、郵便史研究会紀要 郵便史研究、第58号、2025年10月
3.「吉田鉄郎設計の山田家住宅洋館について -南砺市福野の山田家住宅に関する研究(その1)」村田一也、吉澤実紗、秦明日香、日本建築学会北陸支部研究報告集第66号、pp.300-303、2023年7月。他、著者による南砺市福野の山田家住宅に関する一連の研究。
4.「吉田鉄郎の近代 モダニズムと伝統の架け橋」国立近現代資料館、2019年11月
5.「村落と屋敷の対応関係からみた散村の構成原理 : 砺波散居村における居住特性の分析 その2」黒野弘靖、菊地成朋、日本建築学会計画系論文集507号、pp.151-155、1998年5月。他、著者による砺波散居村における居住特性の分析に関する一連の論文。その他に佐伯安一ら砺波市立砺波散居村地域研究所の研究が詳しい。
6.「吉田鉄郎の建築と古さ新しさ」樋口清、建築、1968年10月
7.『吉田鉄郎建築作品集』東海大学出版会、1968年5月
8.拙著、『しなやかな建築』第13章 清らかなモダニズム建築 吉田鉄郎が目指したもの、2020年5月(初版)
9.拙稿、生き続ける建築―完 吉田鉄郎「平凡さに潜むモダニズム建築の真髄」INAXレポートNo.178、pp.4-14、2009年4月
10.拙稿、「建築家・吉田鉄郎が残したもの,未来に伝えたいもの」財団法人建築保全センター Re 建築保全No.160、pp. 81~87、2008年10月。吉田の庁舎建築と住宅設計の関係性について論じている。


